今回は簡単に尺八の歴史をご紹介しようと思います。
尺八には大きく分けて雅楽尺八・一節切尺八・普化尺八の三つの種類がありました。
最初の尺八の伝来は古く、奈良時代の東大寺大仏開眼会にまで遡ります。このとき、雅楽の楽器として唐から伝えた楽器の中に、尺八も含まれていたのです。この尺八は奈良の正倉院に保管され現在でも見ることができます。
この尺八は雅楽に用いられていた為に雅楽尺八と呼ばれましたが、時代とともに演奏されなくなり現在の雅楽には使われていません。
次に現れた尺八は、室町時代中期の一節切尺八というものです。これは、名前の如く一節で出来た短く、細い尺八です。あの有名な一休さんが吹いていたという逸話も伝えられています。一時は隆盛を見せた一節切尺八ですが、これも次第に衰退を辿り残念ながら現在ではほとんど見かけることはありません。

現在の尺八の祖となるものは普化尺八と呼ばれています。伝説では鎌倉時代に中国より伝わったものとされていますが、この辺りは史料に乏しく、諸説あり正確なことはわかっていません。
この普化尺八は、臨済宗の一派であった普化宗の僧である虚無僧たちの法器として用いられていました。虚無僧たちは、座禅を組む代わりに尺八を吹く「吹禅」を行っていました。この時に吹かれていた曲は「本曲」と呼ばれ、現在まで伝えられ今でも吹奏されています。
この時代、尺八は普化宗の法器として扱われていたので、一般人は吹くことができませんでした。とはいえ、全く手にできないわけではなく、ある程度は広く楽しまれていたようです。もちろん、宗教的な意味での演奏が主とされていたはずですが、江戸の中期、琴古流の祖・黒澤琴古の時代には、すでに三絃・箏などの世俗音楽(※尺八の経典でもある「本曲」に対して、その外の曲ということで「外曲」という呼び方をします)との交流があったものと考えられています。
その後、明治初期の廃仏毀釈によって普化宗が廃宗にされると、ついに尺八は自由に、広く一般の人々が触れることのできる楽器となりました。また「春の海」の作曲で有名な宮城道雄や都山流の祖・中尾都山らの活躍により宗教的な音楽だけでなく、芸術的な音楽としての道も切り開かれていきました。
このように、現代に至るまで尺八を取り巻く環境には様々な変化がありました。そのような歴史から、尺八が奏でる音楽は様々です。
古典的なものですと虚無僧たちが吹いていた古典本曲、三絃や箏との合奏である外曲(地歌・箏曲 )。土地の歌や説教などが庶民の間で歌い継がれてきた民謡、そのほかにも演歌の伴奏、最近ではJ-POP、洋楽とのコラボレーション、JAZZ、などなど・・・。
現在、尺八は形状こそ昔と大きな変化はないものの、その音楽はどんどんと多様化していますので、それぞれの人にあった尺八の楽しみ方を見つけられると思います。

それでは、今回はこの辺で。次はこの記事にも出てきました、黒澤琴古と中尾都山を流祖とする尺八の二大流派「琴古流」と「都山流」を中心に尺八の流派ついてお話ししようと思います。
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